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院長コラム

院長コラム NO.11  「祈ること・・・外科医とお祈り 」

今年は、大変、寒いお正月だった印象があります。その為か、体調を崩された方々も例年より多いかなという印象です。

毎年新年には、各地の神社仏閣で、様々な事が願われ、祈られていることでしょう。 以前に、胸部外科の友人と話していて、外科医の「祈り」についての話題になりました。つまり、自分が手術してもらうなら、「祈る」外科医と「祈らない」外科医とどっちにしてもらいたいかというものです。私は、「祈らない外科医」というのは往々にして自信過剰なので、油断によるチョンボする可能性がある。だから、術前に祈るような気持ちを持った外科医の方が、ミスが少なくてよいだろう」と思ったのですが、彼は、「術前に「祈る」ような外科医は腕に自信がないからであって、自分なら、断然、腕に自信のある「祈らない」方を選ぶ」と言うのでした。

さて、どっちが正しいのか今でも分かりません。皆様は、どう思われるでしょうか? 私?・・・、軟弱ものですので、当然「苦しい時の神頼み」派です。正月番組での初詣風景を観ながらつまらないことを思い出しました。

2010年 1月

院長コラム NO.10  「認知症・・・その4 認知症の薬 」

 認知症に対して用いる薬剤には、二通りあります。 一つは、アルツハイマー型認知症の中核症状である記銘力障害に対する効果を期待する薬と、随伴症状である行動異常・精神症状(BPSD: behavioral and psychological symptoms of dementia)に対する効果を期待して出す薬です。普通に"認知症の薬"といえば、前者を指すのでしょう。

 少なくとも、日本においては現在のところ、前者の薬としては、ドネペジル(○Rアリセプト)一種類しか選択肢はありません。この薬は、発売になってからもう10年以上たちます。文字通り"認知症につける薬"なのですから画期的な薬です。 この薬は効くのか?と尋ねられますと、答えは「Yes」です。ただ、その程度に関しては、一般の患者さん・家族のご期待には、十分お応えできる程度ではないかもしれません。私自身の最近10年来の経験から、診察室で御説明している内容としては、「大雑把に言って、1割強の患者さんには残念ながら全く効果がない。2割弱の患者さんには、見た目も明らかな効果(著効)が観られます。残る多数派の約7割の患者さんには、一応の効果があります」というものです。この最後の"一応の効果"とは、どの程度のものかと申しますと、「少なくとも、数年間は、明らかな認知症の進行を認めない(要するに現状維持)、もしくは、効果がないと思って中止してみると、明らかに、どことなく調子が悪くなる」という程度のものです。ですので、家族の方が、過度に効果を期待されている場合には、不満足感をもたれるかもしれません。この薬の最大の副作用は、"吐き気"でしょうか。一部の方には、激しい嘔吐がでることがあります。あと、なんとなく元気がなくなるという漠然とした訴えをする方(手変え品変えで、中止・再投与を繰り返しても再現性がある)もあります。ごく一部には、錐体外路症状の悪化(動作がぎこちなくなる)も認めるようです。これらによって、効果はあるのだが使用を断念せざるを得ないケースもあります。

 後者の方は、抗てんかん薬から向精神薬までイロイロな種類・組み合わせがあり、その効果は、多くの場合、素人である御家族の目から見てもはっきり分かることが多いと思います(明らかに妄想が減り・おとなしくなります)。残念ながら、この系統の薬は、脳の活動を抑える方に傾くので、決して、認知症自体を良くするものではありません。また、先述の錐体外路症状という副作用もよく見受けます。

 最初の説明の時、御家族の方には、「前者の薬は、患者さんの(脳機能)の為に出す薬。後者の方は、患者さんの家族の為に出す薬です」と説明しています。つまり、後者の薬は、あくまで、介護にあたられる方の御事情を勘案して処方することになります。

2010年 1月

院長コラム NO.9  「認知症・・・その3 認知症と冷蔵庫の中身とタンスの中身」

  認知症・・・といってもいろいろなヴァリエーションがありますが、特に、活気がなくなりおとなしくなるようなタイプの認知症の場合ですと、最初、うつ病と区別がつけづらい事例もあります。

 確実な区別方法とは言い難いのですが、医師でない方々にも分かりやすい兆候として、問題の方が、女性もしくはひとり暮らしである場合に、冷蔵庫の中の中身がどうなっているかは、ヒントになる場合があります。 とても大雑把に言いきってしまうと、認知症の場合には、冷蔵庫の中身は増える傾向にあり、うつ病の場合には、冷蔵庫の中身は、減少する傾向にあるようです。

 うつ病の場合ですと、何をするのも億劫になるので、買い物にもあまり行きませんし、宅配で買うのも積極的になれませんので、また、食欲自体も落ちることが多いのであえて食料品を買いたいとも思わなくなるのでしょう。結果的に、冷蔵庫の中身は減少傾向になるようです。一方、認知症の場合ですと、億劫感よりも記銘力障害や統合的な(食材を組み合わせて料理を考えたり、料理の手順を考えたりする)能力が低下しますので、無意味に不要な食材を買ったり、買ったことも忘れて冷蔵庫に放置したままになったりで、結果的に、冷蔵庫の中身は、増える傾向になるのでしょう。

 冷蔵庫の中身なら、少々増えても大きな問題にはならない、深刻なのは、高額の着物や高額のふとん等、タンスの中身が増えることです。この場合、たいていは、ローンでの支払いになっていますので、離れてすお住まいの御高齢の御両親の場合には、時々は、注意されてもいいかもしれません。

 私の母親(77歳)も離れて一人暮しています。幸い、タンスの中身は増えてはいません。しかし、何年も前からなのですが、冷蔵庫の中身は、常に一杯で、もうこれ以上詰め込むことはできないだろう状態です。したがって、残念ながら、冷蔵庫の中身で判定する方法はちょっと困難です、あれ以上、増えようがないですからね。

2009年12月

院長コラム NO.8  「認知症・・・その2 認知症の物忘れ」

 世間的には、認知症=物忘れといった感があります。 実際、認知症を診る外来は、物忘れ外来などと呼称されています。 また、自分は、認知症ではないかと心配されて来られる方は、ほとんどすべてが、「物忘れ」がひどくなったといって受診されます。経験的には、こういう動機で受診された患者さんは、認知症ではない・・・ことがほとんどです。年をとると、確かに、物覚えが悪くなったり、人の名前などが出てきにくいという現象は、確かにあります。こういった加齢に伴う普通の物忘れと、認知症の物忘れの最も大きな違いは、

 「大きな出来事自体の記憶がなくなっている」のと「あるひとくくりの出来事の個々の内容を忘れている」の違いです。

 例えば、「去年の夏に伊勢志摩へ家族みんなで旅行に行った」のに、そのこと自体の記憶が全くない、説明しても、全く思い出せないという場合は、深刻に、認知症を考えるべきでしょう。これに対して、美味しい料理を食べたのだが、何を食べたのか忘れてしまったというのなら、そんなこともあるでしょう。「ほら、アワビの残酷焼きが美味しかったじゃない!」といわれて、「あ〜そうやった!」と思い出すなら何の問題もないでしょう。

 人の名前がでてこないというのも、単に、年のせいでしょう。私なんぞは、昔から、「ほら、背の高い、えらの張った顔の人・・・」とか言うのは、しょっちゅうだったので、先が、思いやられるところです。「田中さんじゃない!」といわれて、「そうだ! 田中正子さんだ!」と思い出すなら問題ありません。しかし、「それ誰? 会ったことある?」とか言うのは、ちょっと、アブナイところですね。

 何かを探しに二階の納戸に入って、探しているうちに何を探しているのか忘れてしまったというのも問題ありません。私など、今でも、よくあります。

 大事なものをどこかにしまい込んだのだがどこにしまい込んだのか忘れてしまった・・・というのは、いいのですが、しまったこと自体を完全に忘れてしまっていて、誰かに指摘されても、「そんなものをしまい込んだ覚えはない」と言うなら少しアブナイ。  この時に、「誰かに取られてなくなった」と言うなら、ほとんどの場合、完全な認知症であることが多いようです。

 まあ、例外はありますが、御自分で「物忘れする」といって来られる方は、総じて、大丈夫なことが多く、家族の方に、連れて来られて、御本人に自覚がない場合は、まず、認知症の事例が多いというのが印象です。

 よく、睡眠薬や安定剤を服用するとボケるのじゃないか・・・と不安の声を耳にしますが、学術的にはそういう定説はありません(註:睡眠薬をのんで、一定時間、記憶がとんでいるというケースはあります)。 私は、むしろ、恒常的に不眠で、不規則なリズムの生活をされている方の方に、リスクが多い様な印象を持っています。

 

2009年12月

院長コラム NO.7  「認知症・・・その1 認知症という病名」

 さて、のっけから、認知症自体とはあまり関係なく全くドーデモいい話で恐縮なのですが(私ごときが言っても始まらないという意味です)、私的には、この「認知症」という病名には、大いに疑問を持っています。そもそも、「〜症」という病名は、神経症という曖昧な単語もありますが、通常は、

1) 解剖学的部位名 + 症 ・・・ (変形性)膝関節症、(インフルエンザ)脳症、脊髄症

2) 病態(異常)    + 症 ・・・ 円形脱毛症、夜盲症、血小板減少症

という構成になっています。では、「認知症」はどうでしょう? 身体の中に「認知」という器官・部位はありませんね。 また、認知とは、「知覚したものを脳が統合して判断・認識する」という正常な機能ですので、決して、病的な状態ではありません。 例えば、視覚障害のことを視覚症というのでしょうか? 味覚障害のことを味覚症というのでしょうか? 統合失調症であって、統合症なんていわれたら何のことかさっぱりわかりませんね。 認知症という病名も、これと同じだと思うのですが・・・。確かに、単に「認知障害」と言ってしまうと、例えば、頭頂葉の損傷によって生じる「視空間失認識」などの特殊な病態を指してしまうので難しいのですが・・・。

 この病名は、そもそも、「痴呆」という漢字にも侮蔑的な意味が含まれるということで、言い換えされたものです。確かに、御趣旨はごもっともなのですが、認知症というのは余に意味不明な造語と思います。 せいぜい、「認知障」ぐらいだと思うのですが・・・。 まして、介護職の方から、患者さんの状態説明を受ける際に、「この患者さんは、"認知"だから、介護に手間がかかります!」なんて言われると、一瞬、目が点になってしまいます。

 昔、静岡のてんかんセンターで勉強させていただいた頃、日本てんかん学会の大御所でもある院長先生から、「てんかん」という病名を、「癲癇」と書いてはいけません!と御指導いただいたことがありました(私は、意識的にムズカシイ漢字を書いたのではなく、ワープロが勝手に変換してくれただけなのですが)。「癲」は、倒れるという意味、「癇」はひきつけるという意味ですので、何が問題なのかな?と解からなかったのですが、よく調べてみると「癲」に侮蔑的な意味があるとの見解がありました。

 病名というのは、結構、気を使うものもあるのです。

2009年12月

院長コラム NO.6  「究極の選択」ビーフステーキ それとも 大トロのお鮨

 最近の日本では、糖尿病は国民病といってもいいでしょうか。多くの患者さんが、食べたい物を我慢して、コントロールに勤めておられます。さて、こういう真面目に食事療法に取り組まれている患者さんで、結構頑張っているつもりなのだけども、数値が下がらないと悩まれている方も多いようです。 そんな方の中には、やはり、人の子、脂っこい物が好きで、月に一回ぐらい、どうしても食べたいものを食べてしまうのだという方を、散見します。面白いことに、この場合、「大トロの握り鮨」と「ビーフステーキ」との選択で悩んだ挙句、決まって「鮨のほうがましだろう」と大トロを選ぶのです。

 経験的に申しあげますと、こういう方に、「ステーキ。それも、ヘレの、とっても上等の国産和牛にしてごらんなさい」とアドバイスすると、100%の確率で、HbA1cの値は下がります。総カロリーは、ドッチコッチなのかもしれませんが、おそらく、酢飯が、決定的な破壊力を持っているのでしょう、なんといっても、米飯に砂糖をまぶしているのですからね。まして、酢が甘さを消すので、かなりの砂糖の量でしょうから。このアドバイスで、ヘレにするのは脂肪を少なくすること、上等にするのは総量を減らすこと(高価ですからね)が目的であるのは言うまでもありません。

 これと同じようなことは、ご年配の御婦人(お婆さん)で、もともと、糖尿病でなかった方で、徐々に、血糖値が上がってこられる方についてもいえるようです。 こういう方のなかは、「お寿司が好きで、昼は、助六寿司とうどん。夜は、ちらし寿司」が、週に数回あるというような方も多く見られます。この場合も、「お寿司の回数を減らしてください。お刺身は、好きに食べていいですよ」というと、たいてい血糖は、下がります。若い頃はよかったのでしょうが、足腰が衰えて活動量が減り、加齢による耐糖能の低下によって、こういうことが起こるのでしょう。 あと、ご年配の方の場合、暑いときにジュースをよく飲まれて突然、血糖が跳ね上がる方もあられますので要注意です、こっちは、"ペットボトル"症候群とかいう名前が付いているようですね。

 最後に蛇足ながら付け加えておきますが。トロとヘレの究極の選択は、日ごろ真面目に食事療法を実践されている方の、時々の、摂食発作に対しての話で、寿司さえ、やめておけば、毎日、ステーキばっかり腹いっぱい食っても大丈夫だ!・・・ということではありませんのでくれぐれも誤解のないようにお願いいたします。

 えっ? ウナギですか? う〜ん、あんまり、経験がないのだけれども、あの甘いタレがご飯にかかっているのは、危険かもしれませんね。どうしてもという方は、ご自身で、一度、実験してみてください。

 

2009年10月

院長コラム NO.5  「「手術できる」? or 「手術しなければならない」?」

 患者さんに手術を勧めた場合、たいていは、次の反応が返ってきます。「えっ!手術をしなければなりませんか?」というものです。

 私自身は、「しなければならない手術」などこの世に存在しない・・・と思っていますので、基本的には、そう尋ねられると、答えは「No!」です(まあ、救急で意識障害のある患者さんの場合には話は別でしょうが、彼らは、少なくとも「手術しなければなりませんか?」と問いませんね)。機能的な手術(生死に直結しない、痛みや運動障害の改善のための手術)は無論のこと、早期胃癌であっても、患者さんが、手術の有無によるその後の経過の差異を十分理解されているなら、御自身の人生哲学によって「身体にメスなど入れない」と決断されるなら仕方がないと思っているからです。

 そういう哲学はさておいて・・・、もし、皆様が、肺癌と診断されたとします。その時、「手術はせずに、抗癌剤と放射線でいきましょう」と言われたならばどうでしょうか? 大方の人は、「えっ!手術もできないほど進行しているのか!」と思うのではないでしょうか。

 そうです! 手術は、「しなければならない」ものではなく、「できるもの」なのですね。ですから、医者が「手術しなければならない」というのは、「手術というオプションも選択可能です」、そして、「手術しない場合の結果と手術した場合の結果についての判断は、通常の常識的な人間ならば、是非もないですよ」という意味ですね。 というわけで、医者から手術を勧められたら、とりあえずは、「ああ!手術も選択枝として可能なのだ!」と喜ぶべきなのです。その後、その危険性や経過についての説明をよく理解した上で、「手術が受けられる」という恵まれた権利を行使するかどうかを考えることです。

 こんな事を書いていると、使い古された喩え話ですが、「ボトルに残ったワイン」を思い出します。そうです、ボトルに半分のワインが残っている時に、楽観的な人は、「まだ、半分も残っている」と考え、悲観的な人は、「もう、半分しか残ってない」と考えるという話ですね。

 私ですか? 私は、どちらでもなく、「ボトル半分のワインが残っている」とだけ考えます・・・というよりそう考えるように努めています。

2009年9月

院長コラム NO.4  「脊椎の手術について」

 前にも書きました様に、脊椎の手術(頚椎や腰椎のヘルニア等の手術)に対しては、「そんな所を手術するなんて、大変だ!」と、頭から、恐怖心を、抱かれている方が多いような気がしますので、ごく基本的な考え方を書いてみます。

 第一に、脊椎の手術は、機能的手術であるということ。つまり、放置しても決して、それで死ぬことはない病変なので、その、目的は、痛みや歩行障害を改善することが目的です。多くの場合、医師の方から、「手術をしなければならない!」と強制するべき手術ではないということです。 たとえば、腰椎の椎間板ヘルニアの場合、最悪、手術しないでダメになっても、それは、高々、1本の神経です。具体的に言えば、一側の足首が、垂れ下がって挙上できないという程度のものですから、痛みさえ本人が我慢できるなら、足首にバンドを巻きつけたって、生活できます。実際、酒屋さんで、手術を勧めたのですが、仕事を休めないからと言って、そうしている方もおられます。手術するかしないかは、あくまで、本人次第ということです。

 第二は、痛みが強く、患者さんが、手術をしてくださいと言ったとしても、その手術のリスクによって、医者の態度は異なります。たとえば、腰部脊椎管狭窄症(ミノモンタ氏もやりましたね)の場合、間歇跛行という症状だけで、単純に、神経の圧迫を取ってあげるだけの手術で済む場合、手術の成績もよく、リスクも低いため、比較的、イージーに手術を勧める場合もあります。一方、同じ病名でも、腰椎にズレを生じており、腰椎の固定術を併せて施行しなければならない場合などは、医者の方も、手術には慎重になりましょう。つまり、同じ病名だからといって、病態が違えば、同じ医者でも、異なる、態度になる場合もあるということです。

 第三は、第一と矛盾するようですが、症状が軽くても、医者の方から積極的に手術を勧める場合も一部にはあるということです。たとえば、頚椎の場合ですと、症状が軽くても、MRI検査で、脊髄の圧迫が高度で、脊髄内に変性を疑わせる所見を認めた場合には、手術を勧める場合もあります。これは、腰椎と異なり、頚椎の中身は、頚髄という脳(中枢神経)の一部だからです。脳梗塞の後、片麻痺などの症状が残存するのと同じで、頚髄も障害されてしまうと回復しませんし、手足の運動麻痺という大きな後遺症を残すことになる・・・つまり、進行してしまってから手術してもよくならないからです。

 上述のように、脊椎の手術は、たとえ、医者が同じで、病名が同じでも、手術に対する態度が異なることがありますので、そのあたり、よく主治医と相談されることが大事だと思います。

2009年9月

院長コラム NO.3  「 開業医の「権威」とは (後編)」

 感心するくらいいろいろな患者さんがいて、理屈で割り切れないことがいっぱいの開業医の現場です。求められるものもいろいろ。スパッと一刀両断したいのがわが外科医の世界‥そんなわけには行きません。そして「民間信仰」が横行しています。

 これを少々大げさに表現すると、近年流行の「権威の崩壊」の一つといえるのかもしれません。教師の権威の崩壊は学級崩壊をきたし、国家権威の崩壊は社会的混乱につながるそうです。上記の受診プロセスの混乱は、医師の権威の崩壊の初徴とも思えます。

 これを少々大げさに表現すると、近年流行の「権威の崩壊」の一つといえるのかもしれません。教師の権威の崩壊は学級崩壊をきたし、国家権威の崩壊は社会的混乱につながるそうです。上記の受診プロセスの混乱は、医師の権威の崩壊の初徴とも思えます。

 これに従えば、私達、開業医の権威も、ひたすら患者さんの満足度(顧客満足度)に規定されるものなのでしょう。MRIのような近代兵器の権威を借りることもかなわぬ弱小診療所にとっては、一人ひとりの患者さんの要求に一つ一つ応えていくことこそ唯一の権威への道なのでしょう。少々人気取りに傾くきらいはありますが・・。

 白鳥陵は、規模に比してその堀が大きく、古墳にしては珍しくその墳墓全景がよく視野に映ります。古代の権威(権力?)を前に、その広い堀に遊ぶ鴨たちを眺めながらとりとめのない思いが浮かぶ最近の晩秋の散歩道です。

2007年12月

院長コラム NO.2  「 開業医の「権威」とは (前編)」

 我が竹庵(診療所)のある白鳥の地には、日本武尊白鳥陵や応神陵など多くの大君陵が群集していています。白鳥の地名の由来は、東征を終えての帰還途上、伊吹山で荒ぶる山神に祟られて落命した日本武尊が白鳥に姿を変えこの地に飛来したことだとか。かの辞世の歌、「倭は国のまほろば‥」はおなじみのあの歌です。振り返れば、大学時代も神武初代天皇と飛鳥の多くの墳墓に囲まれておりました。学生時代との違いはといえば、二上山に落ちる夕日をみていたのが、こちらからは二上山に朝日をみるようになったことでしょう。

 二上山を裏側から見るように、開業して同じ病気を反対側から眺めると、少し感覚が変わってくるようです。病院勤務の頃は、例えば、頚椎の病気で「(神経)根症状は手術しない」などというのは、「下手な外科医の言い逃れ」のように思い、さっさと手術してけりをつけましょうと考えていました。ところが、竹庵を訪ねてこられる皆さんは、手術がお好きでない方や諸般の事情で入院手術が困難な方が多いようで、ご希望にそって保存治療をしていきますと結構何とかなるもので驚いています。

この頃思うことは、患者さんの受診経過が勤務医時代に考えていた以上に種々多様だということです。肩こりで、大きな病院を初診されMRIをとって「何もないよ」といわれるのが好きな方もいますが、椎間板ヘルニアで怪しげなカイロプラクティスに行って背骨をボキボキ鳴らして症状を悪化させる方も多く、果てはうさん臭い呪い師を訪れ「宿世の因縁だ」と告げられウツ病を併発される方までいらっしゃいます。

竹庵の待合室は、俗信、迷信の類に充ち溢れています。「腰の手術をしたら歩けなくなる」、「頭の手術をしたらアホになる」等など。「なんたる無知蒙昧か、この蒙を解かねば」と最初は力んでいた私ですが、最近は柳田国男気取りで、これらの民話のルーツ探しを楽しんでいます。これらの素朴な民間信仰に加えて、この頃では新興宗教(TVの健康番組:ミノモンタ氏やビートタケシ氏の番組等)の信者も増えてきたようです。医師としての私の権威は、ミノモンタより劣るのかと、少々複雑な思いもないではありません。

などと考えながら大昔の権威者の大墳墓の周りを散歩しているこの頃です。

2007年11月

院長コラム NO.1

私の基本姿勢―ちょっと変わっているかもしれませんが「患者さんを心から、自分の家族のように愛す」などと歯の浮いたことを言うのは、もっとも嫌うところです。 よく見受けられる科白ですが、はたしてどこまで本音なのか・・・。
したがって、このホームページにもあまり美辞麗句、建前を並べたくありません。
私は「優しい藪医者」であろうとは思いません。
基本的に「良くなってなんぼ」と考えています。
できれば「寛容な名医」でありたいと日々努力はしていますが・・・。

最近、知ったトリビアなのですが、ギリシャ語では、医者iatrosは男性名詞で、医術iatrikaeは女性名詞です。
昔、先輩に、外科の心得として「鬼手母心」、「鬼手仏心」などと教わりました。
そこに何らかの真理があると感じています。

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